先日のエントリにおけるコメントの反省を踏まえて、犬山市教育委員会のことをいろいろ調べてみました。すると、こんな記事を発見。ここまで完璧にサヨクにハイジャックされていたか。
「全国学力テスト」に疑問 不参加表明の犬山市で集い (2007年4月2日(月)「しんぶん赤旗」)(http://www.jcp.or.jp/akahata/aik07/2007-04-02/2007040214_01_0.html)
「『全国学力テスト』で教育は『再生』するか?」と題した集いが一日、愛知県犬山市で開かれました。同市では、少人数指導など子どもたちの「学びあい」を大事にする学校教育を進める一方、全国一斉学力テストについて市教委は不参加を表明しています。集いでは、少人数指導で子どもたちが意欲的に学習している姿について報告され、全国一斉学力テストへの疑問の声が聞かれました。
主催は、「あいち県民教育研究所」。教育研究者や教師、父母ら九十人が参加しました。
中嶋哲彦さん(犬山市教育委員、名古屋大学大学院教授)が問題提供者として発言しました。全国一斉学力テストについて、「文部科学省が決めたルールで子どもや教師、学校、地域を競争させ、国が定める基準で評価し、学校の教育活動や地方の教育施策にしばりをかけようという制度だ」と批判。全国的な学校の序列化を招く危険性を指摘しました。
犬山市独自の学校教育について、小学校教師は、「少人数指導で、子どもから『一緒に楽しく学べる、教え合えるのがいい』と声が返ってきます。競争による不安でなく、『やった、できた』という自信をつけさせたい」とのべ、別の教師は「大変さもあるけど、習熟別ではない少人数指導や少人数学級で、子ども同士が学び合う授業をつくっています。競争でなく、本当の意味での学力をつけさせたい」と問題提起しました。
二人の小学生を持つ同市内の母親は、「毎日持って返るプリント類をみても、一人ひとり丁寧にみてもらっていると思います。なぜ、全国一斉学力テストに参加しないかわからなかったけど、学力テストが子どもには決してプラスにならないと思いました」と話しました。
(引用ここまで)
もう一つ。この中嶋さん、こんな所にも記事が載っている。
【学テ不参加の犬山市教育委員会 講演要旨 中嶋哲彦名古屋大学教授 全国学テは人間的価値否定】(週刊MDS, 2007年04月20日発行982号)
(http://www.mdsweb.jp/doc/982/0982_45z.html)
全国学力テストの目的として3つが説明されている。
一つが04年に中山文科相(当時)が唱えた「競争意識の涵養」で、国家戦略として学力向上を図ること。2つ目が、文科省が言う教育施策を検証する行政調査だということ。3つ目が、規制改革・民間開放推進会議の答申(06年12月)の言う教育バウチャー制度の基本パーツとして位置づけることだ。
この3つは矛盾する。文科省は、競争をあおったり学校を序列化することはよくない、だから点数は公表しないと言う。これは、大臣の言葉を正面から否定することになる。
テスト結果については、情報公開請求が出れば、公開せざるを得ないだろう。文科省は個人情報についての認識が非常に甘い。230万人もの情報を扱う危険性がどれほど大きいか。ここに焦点を絞った教育委員会への働きかけが重要だ。
学力テストは有害
しかし、中心的問題は競争意識をこれ以上増していいのか、それで子どもが幸せになるのかということ。
文科省の施策検証にかかわってPDCAサイクルという問題がある。プラン(計画)、ドゥー(活動)、チェック(評価)、アクション(措置)で、Cの一つが学テだ。PとDがうまくいっているかを評価し、結果によっては国が何らかの措置を取る。
文科省は、全国的な学力の状況を調べ、国として改善のための具体的なメッセージを示すと言っている。学校の新しい管理の仕組みを導入するものだ。
なぜ犬山市教育委員会は学テに参加しないと決められたのか。一つには、この6〜7年間、少人数学級や教材づくりなどを教育委員会が提起し、学校が受けとめ、教育改革を自分たちでつくり上げてきたことがある。
少人数学級は習熟度別授業ではない。子どもたちは学び合いを通じて学習し、学習を通じて人間として成長していく。他の人を助けることに喜びを持ち、他の人に援助を求めるのは恥ずかしいことでないと学ぶこと。だから学習は共同的なものでなければならないというのが、教育委員会の考え方。それを保護者や教師も認めるようになった。この積み上げで学テは不用どころか有害との考えにまで進んでいる。
教育は地域で作るもの
2つ目には、犬山の教育委員会は現行法上の権限として、こう考えるときちんと言っただけ。どこでもできるということだ。学テはおかしいと思っている教育委員会はけっこうあるが、勇気がない。勇気を与えることが市民の側の運動に求められる。
私は「犬山の子は犬山で育てる」と言い、これが定着してきた。自分たちの町の教育は自分たちでやりたい、国は口を出さないでほしいと明確に言わなくてはいけない。
国家的な価値と地域的な価値の間には違いがある。教育が地方に任されているのは、国民一人ひとりが育っていく時、国家的な価値や論理ではなく人間的価値や地方の論理が活かされるように教育制度を作らなくてはならないからだ。世界のどこでも教育は地方が行う。教育は自分たちの町でつくっていくものであって、そこに学テという制度を利用して国が口をはさんではならない。
(引用ここまで)
文責:新発田